教育に関わる全ての人に読んでほしい『幸せになる勇気』

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みなさん、こんにちは

今日は大ベストセラー『嫌われる勇気』の続編である『幸せになる勇気』についてお話しします。

『嫌われる勇気』同様、「心理学の三大巨頭」と称されるアルフレッド・アドラーの思想(アドラー心理学)を「青年と哲人の対話篇」という物語形式を用いてまとめられています。

哲人のもとを3年ぶりに訪れた青年は図書館司書から教員に職を変えていました。

アドラー心理学に基づく教育を実践し、ひとりでも多くの子どもたちに光を届けようと意気込んでいた青年が、アドラー心理学はペテンだと言い、哲人の目の前でアドラーを打ち捨てるために訪問したところから物語は始まります。

多くの思想が解き明かされていきますが、この記事では5つだけ紹介します。

元高校教員であり、現在も日本語学校講師として教育の現場に立つ私の経験も交えながら、教育に関わるすべての方に共有していただきたいと思います。

子供たちに対して「尊敬の念」を持つ

哲人は青年に語ります。教育の入り口は「尊敬」であると。

だれがだれを尊敬するのか。教師が子供たちをです。

役割として「教える側」に立っている人間が、「教えられる側」に立つ人間のことを敬う。尊敬なきところに良好な対人関係は生まれず、良好な関係なくしてはことばを届けることはできません。(P41)
アドラーの説く「尊敬」とは「人間への尊敬」であり、その人が「その人であること」に価値を置くことであり、その成長や発展を援助することなのです。
教員になったばかりの頃、生徒と年齢が近かったこともあり、なめられてはいけないという「尊敬」とは程遠い気持ちを持っていたことを恥ずかしく思い出します。
今、思い返してみると私自身が生徒に関心を寄せ、「その人であること」に価値を置くことができていた時期は生徒たちとの関係も良好だったように思います。
忙しさにかまけ、表面上の対応しかできなくなっていた時期は、生徒たちに私の声は届いていなかった。
その時期の生徒たちには申し訳ないことをしたと思います。

怒ることと叱ることは同義

感情的に「怒る」のはよくない、冷静に「叱る」のが大切だ。よく聞きませんか。

しかし、アドラーは怒ることも叱ることも教育者として未熟な、愚かな態度だと言います。

あなたは、生徒たちと言葉でコミュニケーションすることを煩わしく感じ、手っ取り早く屈服させようとして、叱っている。(P114)
怒っているのではなく、叱っているのだという青年に対し、こうも言います。
むしろ「わたしは善いことをしているのだ」との意識があるぶん、悪質だとさえ言えます。(P114)

怒りや暴力を伴うコミュニケーションには、尊敬が存在しないのです。

高校の教員をしていた9年間、正直に言えば「怒ったり」「叱ったり」(時には泣きながら)しました。気持ちが伝わったと感じたこともありましたが、今思えば未熟な教員につきあってくれていただけかもしれません。

日本語教員をしている今は、アドラー心理学を知ったこともあり、「課題の分離」を念頭に学生たちに接しています。それでも、「叱った」ほうが早いと感じてしまうこともまだあります。

日々成長、日々実践し続けなければなりませんね。

子どもたちの自立を阻害する教師

教育の目標は「自立」であるのにも関わらず、過干渉、過保護になり「自分ではなにも決められない子ども」を育ててしまう。

それは、親や教育者が「自立されることが恐い」という気持ちを抱えているからだというのです。

もしも生徒たちが自立してしまったら、あなたと対等な立場に立ってしまったら、あなたの権威は崩れ去ってしまう。(P121)
さらに、子どもたちが失敗したときなどに、責任を問われることを回避したいという気持ち。どうすれば回避できるか。
子どもを支配することです。子どもたちに冒険を許さず、無難で、怪我をしないような道ばかりを歩かせる。可能な限りコントロール下に置く。子どもたちを心配して、そうするのではありません。すべては自らの保身のためです。(P121)
耳が痛いです。
保身のために(自分の評価を気にしたり、変えた方がいいと思っていることでも、自分にはどうにもできないと考えたりして)、生徒たちをコントロールしようとしていました。
今も学生たちと本当の意味での「横の関係」が築けていると自信を持っていうことはできません。
「尊敬」から始まることを心しなければなりません。
だからこそ、教育する立場にある人間、そして組織の運営を任されたリーダーは、常に「自立」という目標を掲げておかねばならないのです。(P122)

教育者のあるべき姿

子どもたちを「依存」と「無責任」の地位に置かないことに注意を払い、「自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものなのだ」と教えること。そして決めるにあたって必要な材料を提供していくことが教育者のあるべき姿だと言います。
「先生のおかげで卒業できました」とか「先生のおかげで合格できました」と言わせる教育者は、ほんとうの意味での教育には失敗しています。(P122)
厳しい言葉です。なかなか受け入れることが難しいと思ってしまいます。
教育者は、生徒からの感謝を期待するのではなく、「自立」という大きな目標に自分は貢献できたのだ、という貢献感を持つ。貢献感のなかに幸せを見出す。それしかありません。(P123)
教育者というのは「生き方」を問われる職業ですね。
もちろん、すべての人にとっても幸福の本質は「貢献感」なのだというのがアドラー心理学の考え方ですから、教育者に限った話ではないということでしょう。

競争原理ではなく「協力原理」

「怒る」のも「叱る」のも未熟だということでしたが、「ほめる」はどうなのでしょうか。

『嫌われる勇気』でも「承認欲求を否定」していたわけですから、当然「ほめて伸ばす」を否定しています。

ほめたら喜び、伸びる子どもたちがいるのに、どうしてほめてはいけないのか。ほめることによって危険を冒しているとも言います。「ほめられること」を目的とする人が集まると、そこに「競争」が生まれるからだと。

子どもたちを競争原理のなかに置き、他者と競うことに駆り立てたとき、なにが起こると思いますか? ~中略~「他者はすべて敵なのだ」「人々はわたしを陥れようと機会を窺う、油断ならない存在なのだ」というライフスタイルを身につけていくでしょう。(P137)
そして、賞罰も競争もない、ほんとうの民主主義が貫かれていなければならないと言います。
競争原理ではない、「協力原理」に基づいて運営される共同体が民主主義的だと。
学級で起こるあらゆる問題を解決する方法は一つだというのがアドラー心理学の結論です。
賞罰をやめ、競争の芽をひとつずつ摘んでいくこと。学級から競争原理をなくしていくこと。(P141)

まとめ

『幸せになる勇気』の中から教育に関わる方にぜひとも考えていただきたい5つのキーワードを紹介しました。

アドラー心理学を知り、その「生き方」を選択したいと考えても実践するのは大変だと思います。
日本の教育現場で染みついた競争原理に基づく学級経営を変えていくのは、かなり難しい。日本語学校においても賞罰で学生をコントロールしようとしている現状があります。
それでも、変えていかなくてはならないと私は考えています。
自分のできることから始めましょう。

まずはすべての人と「縦の関係」ではなく「横の関係」を結ぶ。

すべての人は対等であり、他者と協力することにこそ共同体をつくる意味がある。

『嫌われる勇気』を再読し、「共同体感覚」についてもう一度考えてみたいと思います。

 

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